自分の中の「宗教」(ボツエントリー)

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何回か書こうと思って書かなかったもの(脳内ボツ)を書いて応募とします。あんまりまとまらないかも。

去年から今年にかけて、人間と宗教の関わりについてやたらと考えた。

自分自身は日本人によくある特定の信仰を持たない派である、と認識していて、実際その通りなんだけど、すごくいろいろ思い出してみると、カトリック系幼稚園に行ったのが一番最初の宗教体験だった。

登園・下園時は必ず園庭のマリア様の像に挨拶するし、お祈りはほぼ完璧に覚えてるし(ただし子どもが言う間延びバージョンなので本来の言い方は知らない。というか文語ので覚えたら今は口語のに変わってるらしい。文語の好きだったのに!)、同学年?の子が小児がんで亡くなったときは、みんなで祈ったりした。ところどころにお祈りがはさまったりクリスマスに降誕劇やったりする以外は特に強く宗教教育をしていたわけではなかったけど、卒園のお祝いに子ども向け新約聖書をもらって、見返しかどこかに「光の子として歩みなさい」って書いてあったのを覚えている。その新約聖書を小学生の私は気に入ってやたらと読んでた。高学年になったら、友達に誘われて近くの教会の日曜学校に行ってた(しかしあまりこれは覚えてない。なんでだろ)。1年くらい通って行かなくなっちゃったなぁ。

その一方で、参加したことのあるお葬式はすべて仏教で、宗派が見事に全部ばらばらで、大人しくお坊さんの説教を聞いたり太鼓叩いたり一緒に何か読まなきゃいけなかったり。なかでも印象的だったのは浄土真宗で、割といろいろフランクで、普段の生活に合わせる形で便利にできているなぁ、と思った。関東と関西の違いを学んだりもした。関東では四十九日で関西(大阪だけ?)は満中陰、封筒も関東では銀とか黒白だけど関西(大阪?)は黄白。葬式仏教だのなんだの言われるけど、わからないことを聞くとものすごく丁寧に教えてくれたり、「あんまり気にしなくていいんですよー」とかアドバイスしてくれたり。たまたまいいお寺さんに巡りあっただけなのかもしれないけど。葬式以外にお寺に行くのも結構好き。腰越の龍口寺は鳩を追いかけた子どもの頃から実家を離れる直前に散歩に行くまで、遊ばせてもらったなぁ、と思っている。

神道にはあまりご縁がないけれど、ご縁がないと思っている割には近所の神社から鶴岡八幡宮伊勢神宮に至るまでなんだかんだとよく通っている。大阪にいた頃の初詣は住吉大社で、毎年えべっさんに行った。あんまりエピソードないけどやたらと通りすがったり参拝したりしてる。東京に戻った直後は明治神宮を散歩したし。一番自分の感覚として「あり」なのは神道な感じがしていて、なんといってもこれだけあっちゃこっちゃの宗教に関わってても八百万の神っていってればああそうだよねーって自然に納得してるし、神無月にみんな出雲大社に集結するというエピソードもいいなぁと思っている。何より高校受験のときに荏柄天神社にお世話になりまくったのだ(菅原道真公をまつった学問の神様がいる神社。えんぴつが有名)。

とまあだらだらと書いてみて、やっぱり典型的日本人だなーと思った。がしかし、典型的日本人なりに、去年から今年にかけてはどうしてもまともに向き合わざるを得なくて、なんとなく意識して調べ物とか本とかに触れて、人間の中での宗教の役割みたいなものをすこーしずつ整理していた気がする。ベースは幼稚園時代に作られたことも認識した。ついでにというと変だけど、為末大さんのツイートも考えの整理の一助になった。

整理するだけはしてきたけど、特にどこかの宗教の信仰を持つに至ることはない(現時点では)。ただだらだら書いてきた分くらいはいろいろな影響を既に受けているわけで、自分はあんまり関係ないからいいやー、みたいな気持ちには戻れなくなった。考えたり整理したりすることが特に何かにいきなり影響はしないし、人間的成長になったみたいなこともないけど、そういうタイミングみたいなものはきっとあって、一度認識してしまったらもう忘れられないんだろうなぁ、とぼんやり考えている。