文字通りに悪い夢を見る

「さあ、これから寝よう」と思うとき、かすかな緊張感がある。

翌朝のことを考える。

寝覚めはいいだろうか。無事に起きられるだろうか。悪夢を見ないだろうか。

3つ目の「悪夢」が結構、私の睡眠にとっては一大事で、悪夢を見なければ「寝覚めはいい」「無事に起きられる」の2つは自動的にクリアできる。

クリアできなかった時は大変だ。動悸がする時もあれば起きられない(起きてすぐ強烈な眠気に引っ張られるようにして寝てしまう)時もあり、起きたはいいけどずっと気分が悪くて何にも手に付かない時だってある。

対策としては「なるべく早く寝てなるべく早く起き、始動時間までのバッファを持っておく」ことくらいしか、今のところ有効な手立てはない。

あまりにも悪夢を見まくる上に具体的に生活に支障が出ているので、かかりつけ医に相談したところ、一応漢方を処方してもらえた。飲んでいるけど、効いているんだかいないんだかさっぱりわからない。気休めでもいいか、と思って飲み続けている。

具体的には「その時一番気がかりなこと」が手を替え品を替え現れる夢だ。ここ1年くらいはずっと家族の夢を見ている。何を不安に思っているかが丸わかりで面白い。次点としては「就職先がない夢」「大学を卒業できない夢」。起きて、私は今働いている、社会人となって収入を得ている、と確認して、ほっとする。もう25年も社会人をやっているとは思えない夢である。

家族関連の夢は、お互いに死ぬか死なれるかしない限り一生見続けることになるのだろう。宝くじが5億円くらい当たって、誰にも言わずに金銭的な悩みが晴れた状態にならない限りは。

寝る前に緊張感があるが故にリラックスした状態で入眠できないのだから、そりゃ悪夢だって見るだろう、と思うけど、鶏が先か卵が先かの課題なのでどうにもならない。私はいったいいつになったら安眠できるんだろう。

おごりおごられ論争とか割り勘論争とか

書く気持ちになったきっかけ

1999年くらいからもう「割り勘論争」やってた当事者です

私だけってことはないけど、日記リンク集「日記猿人」にWeb日記を登録していてある程度活発に読んだり見たりしていた人は、単なるハイパーリンクをメモ帳でこつこつ書く時代から「割り勘(あるいはおごりおごられ)論争」があったのを記憶されていると思います。いや忘れちゃっていいと思うんですけども。

私は当時のWeb日記*1でよくその話題に乗っかりました。20代は若かったね。おごり・おごられで序列が付いたり優位性が生まれたりするのが本当にいやで、だいたいのツーショットオフ会*2できちんと割り勘にしていました。当時Web日記を通じて遊んでくれた人はたいてい年上だったから、というのもあるかもしれませんが、社会人になりたてほやほやだった私は「学生なら許されるけど社会人なら自分の飲み代は自分で払いたい」と強く考えていたのでした。

挙げ句の果てに、Web日記関連のちょっと大規模な飲み会で、男女関係の話で大げんかすることになる*3のですが、それはまた別の話。

その後の思考の変遷

実際にその後自分がどうなっていったかというと、とんがりまくっていた20代を経て、「まあ相手に余裕がありそうだったら出してもらってもいいのかもしれない」と思った30代を過ごし、40代になると「可処分所得が多少なりともあるんだからやっぱり自分の分はそこそこ払おう、でも全部が割り勘じゃなくてもいいや」に落ち着きました。いやー本当にWeb日記をがしがし更新していた頃の私は若かった。でも間違いだと思ってないし、そういう気概を持つ20代女子がいてもまあいいじゃん?と懐かしく回想できます。

25年前くらいから「おごり・おごられ」「割り勘」の論争ってどうしても当事者がいるからなくならないわけで、歴史は本当に巡るなと思いながら、最近のX(Twitter)を眺めています。

*1:どこかのPCにデータが眠っているが、Web上には今はないです

*2:という呼び方をしていたんです当時は。今だとサシ飲み?

*3:サプライズでホテルのバーとかで夜景見ながらプレゼント渡されると女性は喜ぶんだ!と主張していた人と。意外とまだ覚えてるな……

「一兵卒としての古参」として生きるには

今の会社に入ってから16年が過ぎ、17年目に入って、押しも押されもせぬ古参社員である。弊社は創業から23年ちょいなので、絶対値的にも割合的にもそうなる。もしもうちょっと古い最初の会社で25年勤め続けたとしても古参にあたるので、一般的な会社員として古参といってよいだろう*1

今回は「老害」ではなく「古参」の話。

相対的に古い時期に入社する人はその後増えるはずもないから、相対的に新しい時期に入社する人が増える一方で、減っていくしかない(以降「相対的に」は省略)。当然古い時代に関する記憶もそれなりにあるので(薄まってはいくけど)、歴史的経緯などを解説するには役立つが、あまり古い時代のことを持ち出しても「古代の話」となってしまって役に立たないことも多々ある。ミームなどもそれである。

IT業界にいるという特性上、役に立たない経験や知識は本当に役に立たないのだが、その現実を認めるのは過去の自分ごと否定することにうっかりつながる。思い出話もうかうかできない。そもそも思い出話を語れる人が少ないし、積極的に語りたいかというとそうでもない話だってある。

100年続く会社であれば、過去の知識や経験は「社史」として整理され、記録されていき、現在を生きる人は安心して忘れられる。必要があれば資料にあたればいい。「そうか、記録することで語り継がなくてもよくなるのか」となんだか大学で学ぶメディア論みたいなことを考えてしまった。

ここで突然話が吹っ飛ぶのだけど*2正教会キリスト教の宗派)に「永遠の記憶」というものがある。

永遠の記憶 - Wikipedia

過去に検索してたどりついたはずのページが今Googleで全然出てこないのでWikipediaと記憶をもとに書くが、この場合の「記憶する」主体は神で、人間ではない。キリスト教における全知全能の神が、その人のことをすべて(誰も見ていない行為や祈りも、髪の毛までも一本残らず)覚えているので、肉体的に限界のある人間はすべて覚えている必要はない。だから、神が永遠に記憶してくれるように祈る、みたいな解釈が可能だったという覚えがある*3。この「永遠の記憶」の話を見た時、人間は時間的に有限の存在だから、ロゼッタストーンやら竹簡やら何やらに記録を残し、紙を発明し、印刷術が生まれ、なんとかして記録を後世に残すように頑張ってきているのだなぁ……と感心した。

私は図書館が好きだったりはてなブックマークを愛用していたりとアーカイブ魔なところがあり、なんか幼少の頃から「テレビが記録できないのでメモを書く」みたいなことをやっていて、その原点というか最初のこだわりが「幼稚園で起きたことをすぐ忘れてしまうので、定期的に思い出そう」みたいなことを意識して「あの時はああだった、こうだった」と記憶に定着するように頑張っていたということだったのを、ふと最近思い出した。文字の読み書きができない頃からやっていた。具体的には幼稚園の年中の「ばら組」だった頃にスタートしていて、そのせいか普通はあまり記憶を持たないはずの幼稚園の頃の記憶がめちゃくちゃある。

初期のGoogleの「すべてを検索可能にする」という目標がとても好きだったのも、成長する有機体である(by ランガナタン)図書館が好きなのも、後付けで得た知識から来るものではなくて、生来の傾向なんだなぁ、とひどく納得した。

だから、過去に得た知識や経験や起きた出来事などが放置されたり忘れ去られたりするのがなんだか残念だと思う気持ちが強いんだろうなと思った。世間ではかつて「左遷されたり冷遇されたりした結果、社史編纂室に配属される」という設定があったものだったけど、私だったら喜んで異動するわ、社史作りたいわ。どこかで社史編纂室の募集してたら応募したいくらい。でも今の世の中ではそんな贅沢な職種はきっと存在しなくて、あったとしても本当に有能なアーキビストがめちゃくちゃ活躍してたりして、私の出る幕はないのだろう……と思うと、「一兵卒としての古参」の存在意義というのは本当に難しい。

*1:内科的には「若いので」と再三言われる。そりゃそうだ

*2:この記事は日記であってブログではないので特に読みやすいように編集したりしていないのです。すみません

*3:正教会の方でもし間違いを指摘してくださる方がいれば、修正しますので、お知らせくださいませ

2024年7月のAmazonプライムデー(先行セール含む)で買ったもの

今回割と勢いよく買い物をしたのでメモっておいてあとで自分が読む。

ヘンリービギンズのシートバッグ

シートバッグ、ドッペルギャンガーの水に強いやつは買ってあるんだけど、ロングツーリング(今年は行ってみたい)のことを考えると出し入れが楽なバッグが欲しいなと思っていて、実際にライコランドで実物も見てたんですが、プライムデーで安くなっていたところをポチってしまいました。最近は雨がちなので、タイミングを見てくっつけたいと思います。

mozの厚底スポーツサンダル

スポーツサンダル欲しいなと思ってたら……セールだったのでつい……靴はネットで買うなってよく言うんですが……。早速ご近所に出かけるのに使っています。ワンサイズ下(24.5→24)でもよかったかもしれないのですが、夕方になったら足がむくむのでちょうどいいのかもしれない。未検証。

トランパラン +U スマホポーチ

東京モーターサイクルショーに行った時に買ったホンダのサコッシュスマホポーチとして使い倒していたら、だんだん汚れてきてしまったので、いったん洗ってみることにして、それはそれとして(?)使い勝手のよさそうなスマホポーチを買いました。撥水素材なので汚れにくいと思います。深さも十分。サコッシュだとどうしても浅いのであぶない。

COSRX ナイアシンアミド15セラム 20ml

ナイアシンアミドが入ったお試し用の美容液を本当にお試しで使っているのですが、ちょっと効果がよくわかんないなと思ったので、プライムデーを機に購入。効くといいな。

ATUMTEK スマートフォンBluetoothリモコンシャッター

プライムデーの対象ではないのにうっかり買ってしまった。ダイソーで買ったやつがあるにはあるんですが、ちょっと作りが心許ないので、多少ちゃんとしたものを使ってみたいなと思って。2つあるのでiPhoneとPixelでそれぞれ使えるので便利(だと思う)。

JIMENCE レジャーシート(オリーブ)

バイクでどこかに行った時に、座る場所がない!みたいなことがたまにあったりします。今のところ致命的に困ったことはないんですが(なぜならちょっとだけ休憩して長居できずにまた走ってしまうため)、腰を据えてのんびりしたいとか、木陰に座りたいとか、原っぱに来ましたみたいな時とかに使いたいなと思って購入。たまにアウトドア的な出来事が発動するのでそういう時にも持っていきたい。

誠時 目覚まし時計 Coppet Orange

実はこれを買うのは二度目です(最初は確か鮮やかなオレンジだったと思う)。昨年入院した時にめちゃくちゃに便利だったので手元に置いておきたかったんですが、その後に妹が入院して、とっさに使うだろうと思って持っていって、その後特に返却されなかったので……まあ差し入れと思えば別にいいかなって……。それはそれとしてやっぱり手元に欲しい。ので買いました。サイズ感と色と見た目がよかった。

Ariake 自撮り棒

自撮り棒的なものを買うの、たぶん3回目とかなんじゃないかな……なんで自撮りをまれにしかしないのに自撮り棒こんなに買ってるんだろ。なんかこう「変なガジェット」として魅力がある。そしてたまにお出かけの時に持っていって一切使わずに持って帰ってくる!! 例えば野球場とかで使いたいけど邪魔になるじゃないですか。こういうマインドだと一生自撮り棒を有効に使えない気がしますね。で、なんで買ったかというと安くて魅力的だったからです。自撮り棒、割とお高い(用途にしては)と思ってるんですが、なんかこれ安かったんで、出先で壊れてもあんまり気にならないかなーという気持ちになってポチ。バイクに精密機械を載せるのはちょっと躊躇するけど(なのでデジタル一眼レフを持っていく気持ちにはなれない、コンデジは一応持つことがある)、自撮り棒+スマホならええやん、ということでつい。

ちひろさん 6~9巻、未収録作品パック

昨日たまたま5巻を読み返していて、完結したのに読んでなかったわーと思ってついつい最後まで買いました。まったくプライムデー関係ないけど……。

自己肯定感というか、自己評価が曖昧でずっとうまくいってなかったけど最近うまくいくようになった

四半世紀かかった」の続きというか、派生エントリー。

25年くらい社会人としての自己評価に悩まされてきたのだけど、思春期を越えたあたりから今まで、さまざまなコンプレックスに悩まされてきた。全部挙げると大変な数になる。なので最近わかってきたことをなんとなくまとめてみる。

「自己肯定感低くてもなんとか頑張れたいくつかの方法」を読む

blux.hatenablog.com

こちらの記事に非常によくまとまっているのでまずはこれを見てくれ。

だいたい言語化されていたのでもう書かなくてもいいかな?と思ったけど、

songmu.jp

こういう話もあるのでまあ書いてもいいかなとも思った。ので続きも書く。

「まずは自分を愛そう」とか思わない。それはハイレベルすぎる。

「自分を愛する」という言い回しが広く使われているのは、たぶん聖書のマタイによる福音書22章39節からなんじゃないかと思う。違ったら教えてください。

しかし、聖書の教えを深く学んでいる方でもこの聖句の解釈は大変だという。一番まとまっているのが内田樹さんのエントリーだったのではっておく。

blog.tatsuru.com

それでなくても日本人にとって「愛」というのは厄介な概念なんじゃないのかなと思う。人類愛だけではなく性愛や恋愛や情愛も含む表意文字である。昔キリスト教の布教において「愛」を「御大切(ごたいせつ)」と言い換えたそうだけど、「大切」の方がわかりやすくてよかったんじゃないかな……個人の感想ですが……。

つまりは「自分を愛そう」とはせずに「自分を大切にね」くらいに思っておけばよいのではなかろうか、と思った。何も丁寧な暮らしをせんでもいい。「セルフネグレクトしないようにね(でないと他のこともうまくいかないからね)」という具合が落としどころなんじゃないかと思う。

過度な自己否定は意識的に避ける

それができたら苦労はしないよね!!!!!

でも鶏が先か卵が先かってなくらいで、無意識に自己否定をするなら、意識的に避けるようにして対抗すればいいのだった。無意識はもうしょうがない。ほっとく。家で、布団の中で、反省会をしたくなる気持ちはわかる。それに抗う。抗いきれない時だってあるだろう。何しろ私など40歳過ぎてもやってましたからね!!

でも意識的にはやらないようにすると、そのうち慣れてきて、「あっ自己否定し(自己否定を否定)」くらいの速さで瞬殺できるようになる。これは「自己否定をしない」のではなくて、「自己否定をする自分を律する」訓練です。練習です。身につけられると思う。麻を飛び越える忍者のごとく。

自己啓発本に頼らない

私には精神的にまいると本を買う悪いくせがあり、30代の頃は、今はなき六本木ヒルズヴィレッジヴァンガードに大金を突っ込んでいた。いろいろな本に触れるのはよいことだと思っているが、自己啓発本はよくなかった。「そうはなれない自分」を突きつけられてしんどくなってしまうのだ。あれはエンタメだ。話半分に聞くか、消費して流してしまおう。

ちょっと前のポッドキャスト「ほっとテック」でyouheiさんが「本を役立つと思って読んだことがない」という話をしており、最近は私も確かにそうだなーと思った。ので貼っておく。

www.hotto.tech

1冊だけ「これはあってよかった」と思ったのは、デール・カーネギーの「道は開ける」かな……。ガチの自己啓発本だけど、ガチで悩みまくっていた頃に「他にもこんなに悩みのパターンがあるんだ」という気持ちになった記憶がある。それ以外のことは忘れた。

とはいえ本を味方につける

さっき読み過ぎるなと言ったばかりだけど、本は味方にもなる。人に相談できない話は本でなんとかしよう。買うのがいやだったら図書館に行こう。今のうちなら、図書館はあなたの閲覧履歴を守ってくれます(いつどうなるかわからんな……という懸念がある)。

過去最悪に仕事に自信が持てなかった時に役に立ったのが、川崎貴子さんが紹介されていた『なぜ女は男のように自信をもてないのか』。データで突きつけられるので大変タイミングがよかった。

next.rikunabi.com

子宮の摘出手術を受ける際には、その川崎貴子さんが書いた『我がおっぱいに未練なし』を読んでいた。

自意識に振り回されっぱなしになってた時には、雨宮まみさんの連載をまとめた『女の子よ銃を取れ』が効いた。

落ち込みっぱなしになっていたときは、一穂ミチさんのお仕事系BLがよかった。唐突にすみません。今や押しも押されもせぬ大作家になってしまった……。

誰か一人でもいいので話を聞いてくれる人を探す

これも難しい。鶏が先か卵が先か。でも私はこれをやりたくなくて溜め込んだ結果、職場を出た瞬間に泣く、みたいなことに陥ったので、誰かにちょっとだけでもいいので(全部話すのはお互いのためによくないので)聞いてもらえるような環境を作る。

私は夫に頼んだ。「これこれかくかくしかじかの理由で家では仕事の話をしなくなったが、今後は話を聞いてほしい」と言った(別にそれまでも聞いてくれないわけではなかったが、私が勝手に話さなかっただけだった)。あとは分散させるように心がけた。この話はこの人に、この人にはここまで、みたいに切り分けると、「重い人」みたいに思われずになんとかなる場合もある。

その結果、加減がわからなくていろいろ言いまくってしまって閉口させることもたびたび起きたけど、そこは加減を徐々に覚えていく感じでなんとか練習しよう。結局練習かよ!と思われそうだけど……。

あとは日記に書いたりブログに書いたりしてもいいかもしれない。私は長いこと、Webでのアウトプット場所に救われてきた感じがある。プライベートをさらけだすなら完全匿名にしよう。顕名でもできないこともないけど、そのうちうっかりそのサービスの関係者になったりすると大変。

意外とみんなも大変であることを意識する

自分が大変だなーとか自分マジ無能~とか自分の生きてる意味わかんねえ、とか考えている時には忘れがちだけど、意外と他の人もいろいろ大変なのである。

例えばうっかり家族が入院していたり、本人が病気だったり、相続の話に巻き込まれていたり、借金があったりするかもしれない。もしかしたら宝くじで大当たりして、あなたの話を聞いているどころじゃないかもしれない(っていうケースはこれまで私はありませんでしたが、まああってもおかしくなさそう)。

リアルであったことといえば、私が周囲の義理の親族に振り回されてめちゃくちゃな感じになっていた頃にふと会った人に近況を話したら「それはよくある話だね、それで自分の仕事の話なんだけど」って話を持っていかれてしまって、一言で終わりかい!!って内心ブチ切れてた時があった。だいぶ前の話なのにまだ覚えている。でも、その辺で「ああ、他人にとっては自分の話って割とどうでもいいんだよな」と楽になれた気もする。

他にもまだまだありそうだけど

いったんここで筆を置く。もうそろそろ半世紀生きてる感じになりそうなのにまだまだ人生修行中といったところだけど、案外「若い頃にはわからなかったな」という加齢に伴う心境の変化もあったりするので、またそれは別の機会に。

四半世紀かかった

今日は会社の評価面談だったのだけど、会社員になってはじめて、面談で堂々と自分のやったことを話すことができた。1999年に就職してから初の出来事である。

誤解されたくないのでこの辺の位置に書いておくと、4つの会社でたくさんの上司・上長のもとで働いてきたのですが、全員に対してよかったとか悪かったとか言いたいのではなく、単に私が主観的に「大人になれたな」と思っているだけです。

できたこともできなかったこともあるんだけど、それはそれとして「これはやった」「これはよくなかった」と表明した、できた、というのが、エポックメイキングなことだった。自己評価が低い人生を歩んできたけど、多くの人たちに支えられて徐々に自己肯定感を取り戻してゆき、でも最後まで苦手意識が強い、というのが評価であった。「何もしてない」「何もできてない」という、よくある気分に陥って、どんより過ごすのである。それが今回はどうしたことか。

いろいろな出来事がタイミングよく(悪く)積み重なった結果だと思っているんだけど、大きな転換点となったのは昨年の妹の入院だった。私は具体的に役に立つとともに、人(具体的には母親)の心というものはあてにならん、ということもわかってしまった。そして行き着いたのは、「私が勝手に思い入れを持って尽くしてきたと考えてきたのはすべて思い上がりだった」という身も蓋もない事実。誰も悪くなくて、一人で空回りしているだけだったのだ(ここをかみくだいて書くと長いので飛ばす)。

そしたら「私の人生、仕事だけじゃないじゃん」と心の底から思うことができた。いやまあ、割と仕事以外のことを好き勝手やってきたとは思うけど、ベースには「死ぬまで仕事しなきゃ」というのがあったのである。それが「仕事に生きるだけが人生じゃないし、なんなら別に仕事しないことだってありじゃね?」と考えられるようになった。

そうなると、サラリーマンの私は仕事イコール会社(現職に限らず)として生きてきてしまっていて、その呪縛からも解放されたのである。いろいろな経緯があって(これも飛ばす)会社員にしがみついてきちゃったけど、そうじゃなくてもいい、というのが腑に落ちた瞬間であった。

そうなると(2回目)、会社との関係性がきちんと「雇用/非雇用」になり、冒頭に戻って「自分のやったこととやれなかったことを普通にしゃべる」ことができたのである。

ところどころ飛んでるけど、ここは日記なのでとりあえず急いで書いている。忘れないように。

概念としての「会社」にめちゃくちゃに縛られていたので、とても新鮮だった。評価者/被評価者の軸も初めて持てたといえるかもしれない。妹の入院で自分が身軽になる。こんな「風が吹けば桶屋が儲かる」的な話が我が身に起きると思っていなかった。

もちろんその過程には、周囲の人(具体的にここで名を挙げて感謝したいくらいなんだけどさすがにとても多いので省略させていただきます)の多大なる応援や支えなどがあった。ありがとうございました。なんだかここで人生終わりそうな勢いで書いてますが、違います。

とにかくとても画期的な体験だったので、仕事から帰って夫に「大人になるのに四半世紀かかった!」と言ってしまった。夫困惑。それはそうだ。すまなかった。

次の評価でも同じような姿勢を忘れずに仕事に励めばよいわけで(ただし自分の記憶力が頼りないのでこうして書いている)、再現性もありそうだし、手に入れるとはこういうことか、とびっくりしている。

ブログか日記に書きたいなって思ってるのにまだ書けてないネタたち

  • 6月に酒田に行った
  • バーミヤンの台湾フェアで飲み食いした
  • 顔面痛はなんとか治ったっぽい……?
  • 散歩始めた
  • バイク関連の漫画を何冊か勢いで読んだ

まとまってプライベートなことを振り返る時間がねえ!!!!!!!!うおお!!!