スマホだとAIタイトルアシストが使えない

のだった。本文書いてアプリにコピペして……などもできるけど簡易版で。

技術広報や採用広報の人たちが集まる会に参加してみた。むかーしちょっとだけ(職歴で相対的に見ると本当にちょっとだけになってしまって残念)広報をやったのと、YAPC::Hiroshima 2024のスタッフをやったのとで、アイデンティティがごちゃ混ぜになり、何の立場で私は今ここにいるんだっけ、というのがよくわからなくなったりもした。

登壇した人や、今日見聞きしたエンジニアの人の話(これは別件)を体感して、みんなちゃんとしてるなぁ、私もちゃんとしないとなぁ、と思ったところで気づいた。残酷だけど、私はもうこの人生1周目では手遅れなのだ。ちゃんとしようとして長年生きてきたけどもう無理なのだ。職場や職業は変わるかもしれないけど、「ちゃんとした人になりたい」という昔からの夢は夢のままで終わるだろう。これはしょうがない、あきらめたまえ、という気持ちが湧いた。

よく「欠点も丸ごと自分なのだから丸ごと愛さないと、認めないと」みたいなこと言うじゃないですか。あれは「愛する」っていう動詞がクソデカだから「私には当てはまらん!」と反発したくなってしまうのだけど、「欠点は直らないからあきらめろ」だったらわかるわ。めっちゃわかるわ。そりゃ長いこと人生1周目に取り組んでいるので、そこそこ「普通の人」に擬態する術はわかっているけど、本質的な部分はどうしたって変わらなくて、私は「ちゃんとできない人類」の方なんだよなと自覚して生きろよ、というのが「丸ごと愛せよ」の言いたいことなんだろう、というのがなんとなく腑に落ちた。

めちゃくちゃだめな人という意味じゃないのです。ちゃんとしてない。ちゃんとする素地がない。まあ真面目ではある方だと思うけど。

何が言いたいかというと自己嫌悪とかではなくて、なんかすごい人ってちゃんとしてるよなー、というざっくりとした気づきがあったという日だった、という覚え書き。「という」が連発で悪文だ。