「ごちそうさん」と「花子とアン」

3/29(土)に朝ドラ「ごちそうさん」が終了し、3/31(月)から「花子とアン」が始まりました。

あまちゃん」を見ていた勢いで朝ドラ視聴習慣が復活し、そのまま見始めて完走、というパターンだった「ごちそうさん」でしたが、いまいち面白かった!という気持ちにはなれませんでした。いろんなエピソードが置き去り、回収なし、戦後にいろいろ詰め込みすぎ(和枝さんの“いけず”は長かったのに……)、特に最終週のぐちゃぐちゃな感じがひどい、その割にはセットや演出に凝ってる、みたいなアンバランスさに目をつぶりきれず、もやっとした気持ちで最終回を見終わりました……。

しかしよかったというところもあったので、書き出しておこうと思います。

  • 希子役の高畑充希さんが非常によかった。内向的な少女から「職業婦人」まで演じて、さらに歌もうまくて心の支えになった
  • 和枝役のキムラ緑子さんの大阪弁がきれいだった(違和感なかった)
  • 源ちゃんかっこいいよ源ちゃん。病気で帰ってきたときの話はえって感じだったけど……
  • 宮本先生(奥貫薫さん)が素敵な役だなーと思った

そして始まった「花子とアン」。主演の吉高由里子さんが大丈夫なのかな……という気持ちで見たのですが、最初の1945年の空襲シーン、原稿用紙に書いていたのが「赤毛のアン」のほぼ最後に近い“曲がり角”の部分だったのですね。

たぶん「赤毛のアン」を読んだ人なら一発でどの部分かわかるところなんですが、ドラマ全体の最初のシーンなら、マシュウがアンを迎えに行くところ、マシュウとアンの最初の会話、最後の最後のブラウニングの詩「神は天にいまし、すべて世は事もなし」のところ、あたりでもよかったと思うんですよねぇ。映る女性が「赤毛のアン」の翻訳者(である村岡花子)であることがわかればいいので。

でも空襲の中原書と辞書を抱えて逃げるシーンの前に、あえてシンプルで前向きで静かな希望が伝わる曲がり角のシーンを使ったっていうのが、アニメ「赤毛のアン」を経て村岡花子訳に入った(松本侑子さんのものは未読ですすみません半年以内に読みます)私にはなんだか妙にヒットしまして、いろいろあるだろうけど半年完走したいなーと強く思ったのでした。

空襲シーンの次のオープニングで、白い服を着たアンが登場して帽子かぶってるあたりでもうだいぶやばかった(OPかEDで白い服出てきます)。

以前どこかで書いた気もしますが、小さい頃一家そろってアニメ「赤毛のアン」のファンで、母親はせりふをほとんど覚える、父親はグリーンゲイブルズの図面を引いてみて「あれは作れない」と思うなど、環境からしてかなり刷り込まれた状態なので、「ごちそうさん」「花子とアン」でだいぶ思い入れが違うのは否めません。でも「ごちそうさん」も大阪の料理や文化、風俗などが描かれるとだいぶ期待していたんですよーーーー。期待外れだった……。

高校で代数幾何がおそろしく苦手だったとき「アンでも幾何は苦手だったんだから」と思ったり、病気のときは慌てずに冷静に対応しよう(アンがミニーメイを看病したところを受け)と思ったり、自分ではどんなに着ることはなくても「ふくらんだ袖」になんとなく憧れたり(買い物に行くマシュウかわいい)、市松模様のベッドカバーが好きだったり、ふわふわのベッドにどーんと飛び乗るのに憧れたり(下には人がいるんですけど)、小さい頃の憧れの多くが「赤毛のアン」から来た感じだったなぁ。私がひっそり座右の銘だと思っている「人生万事塞翁が馬」は、新井素子著「通りすがりのレイディ」に出てくるレイディの処世訓なんですけど、曲がり角の話は割とそこに近い原点だったなーと思い返しました。

Kindleで既に入手済みだったアニメ版の原作にあたる神山妙子訳の方を、ひとまず読みつつ、「花子とアン」もこつこつ見ていこうと思います。

赤毛のアン

赤毛のアン

村岡花子訳は全部図書館で読んだので、買っちゃおうかなと思いましたが、今入手できる講談社青い鳥文庫の新装版はなんだか表紙が……。