文章→映像の脳内変換

昨日あちこちで話題になっていたので、私も考えてみたいと思いつつ、時間がなくて書きそびれていた「文章→映像」の変換について。
一番近かったのはぼそさんのような気がする。

そういや私は小説を読んでいる時、あんまり映像を思い浮かべていないような気がする。
かといって、文章をそのまま楽しんでいるわけでもないような。
(中略)
私、頭の中で文章を“音”にしている。
わりときっちり頭の中で音読して、言葉の響きや句読点のリズムを楽しんでいるみたい。
(中略)
どんなに魅力的なストーリーが展開されていても、
美しい情景が言葉巧みに描写されていたとしても、
言葉の響きと文章のリズムが好みじゃないと、
不協和音と変拍子が続く曲を聴かされているような、不快な気分になっちゃう。

がっつり引用してしまったなぁ。
みんながよく読む作家でもどうしても読めないとか、エッセイは好きなのに小説は読む気がしないとか、きっとここに原因があるのだと思う。

私がコバルト文庫を読んでいた頃は赤川次郎がものすごく流行っていたけど、私はどうしてもその文章が好きになれなかった。よしもとばなながことごとくベストセラーになっていた時も、ある特定の作品しか読めなかった。島村洋子のエッセイが大好きでほとんど揃えたこともあったけど、小説は揃える気にならなかった。最近のものでいうと、京極夏彦の文章はどうしても目が滑って読めない。

翻訳ものが苦手なのもぼそさんと一緒で、日本語として自然な感じ(自分の中で)じゃないと1ページ進むのも大変。村岡花子訳の赤毛のアンシリーズをばかみたいに読みまくった時期があったけど、「アンの友達」「アンをめぐる人々」*1はなぜか全く目を通す気にならなくて、何度図書館から借りてきてもそのまま返してしまっていた。

自分でもこの偏りっぷりはなんだろうと常々思ってきたけど、文体(文字のバランス・リズム・ニュアンスとか使い方とか)が自分と合わないから読み進める気にならないんだなぁ。文体が合うとリズムよく読めて、ストーリーにのめり込んでいける。そしてその時、映像は頭の中にはない。……あ、見たことないものを文章から勝手に空想してしまって、実際に本物を目にした時にものすごいずれを感じたことはあったな、そういえば。

くっきりはっきりした映像を脳内再生できている訳じゃないのに、漠然としたイメージみたいなものは浮かぶ。そのイメージと文章の臨場感で雰囲気をつかみとっているというか……。例えば新井素子の「星へ行く船」シリーズなんか、現実にはないものばかり出てくるから*2、映像を結ぶことそのものが至難の業だと思うんだけど、「文章→映像」の回路がある人はどう感じるんだろう?

*1:シリーズ中盤だと勘違いしてたけど、ラスト2本なんだなぁこれ。

*2:そりゃSFだから当たり前なんですが、にしてもあれはなぁ