自炊能力は文化資本、の話

年の瀬が近づいて飲み会やら何やらが増えるこの時期、ふと晩ごはんを一人で食べる機会が訪れて、仕事の山場を1つ超えたし何か食べたいものを食べようかな、どうしようかな、と思っている最中に、「そういえばこういうときに『何か作ろう』って思ったことないな」と思い至った。ごほうび要素のために自分で何かを作りたくないのではない(平日はほぼ私が何かを作る機会はない)。じゃあ何か作るとしたら?と考えたら、じゃがいもを焼きいも焼き器でふかしてじゃがバターにするか……くらいしか思い付かなかった。21時過ぎてから炊飯器でごはんを1人分だけ炊くのはどうも気が進まない。

自炊をしない要因=言い訳を並べるのは簡単だ、と思われていると思う。しかし、その言い訳は「自炊をする習慣があって、でも面倒だからやりたくない」という構図ではなくて、今一人分のレシピをゼロから考えて、そのために食材を買って、余らせてだめにする未来がほんのり見えつつ、ごはんを炊いて22時に入る頃に食事するのはどうにもつらい、ということに向けられているのだった。ここで「準備しておいた常備菜や手早くできるおかずで晩ごはんにしよう」というようにできれば丁寧な暮らしとしてはパーフェクトなのだろう。しかし私の意欲はまったく動かない。

お好み焼きを食べればよい、という記事を読んで、内容には大変納得していて、それも思い出したのだが、自分が週の真ん中で買った食材を明日明後日使い回すことができるかどうかわからない。

こういう自分の中だけの気苦労を募らせることなく、とりあえずの安寧を得るために「自炊をしない」ということになる。この気苦労は「料理はすべきもの」「食材を無駄にしてはいけない」などに形を変えて意外にじわじわと自分を責めにかかるのであった。変に落ち込んで目が冴えて眠れなくなり、明日に差し支えることになってしまうのもおかしい*1。レシピが思い付かなくて料理本を開いて途方に暮れて涙ぐむ、なんてこともおかしい*2

本当に自炊能力は文化資本だな、と痛感。

*1:極端だと思われるかもしれませんが、かつて経験したので、そうならないとは言い切れない。

*2:これを毎日やって、夕方を絶望的な気持ちで迎えて泣いたこともあったのだった。