「文章→映像」回路に関してふと思い出したこと

この回路を持たずに文が持つリズム(主に音)で文章を捉えるということ、について(長い)考えていて、思い出したことがあります。

(主祷文)
天にましますわれらの父よ、
願わくはみ名の尊まれんことを、
み国の来たらんことを、
み旨の天に行わるるごとく
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を、
こんにちわれらに与え給え。
われらが人にゆるすごとく、
われらの罪をゆるし給え。
われらを試みに引きたまわざれ、
われらを悪より救い給え。
アーメン

(天使祝詞
めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主 御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも
祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終のときも祈り給え。
アーメン

(栄唱)
願わくは、
聖父と聖子と聖霊とに
栄えあらんことを。
始めにありし如く、
今もいつも世々に至るまで。
アーメン

ちなみにWikipediaはこちら。

私が通った幼稚園はカトリックの幼稚園だったので、毎日(だったかどうかあんまり覚えていない)お祈りの時間があって、この長い長いお祈りをみんなで唱えていました。祈るというよりは歌うに近いというか、ある節回しに言葉を乗せて口にするというか。意味なんてほとんどわからないままとにかく覚えてとにかく唱えてたなぁ。一応基礎知識として、イエス様がどうのマリア様がどうのという話は聞くんですけどね。

この長い長い言葉を音(ある一定のリズム、節回し)に乗せて口にすることで、言葉と音がセットになるという原体験をしたような気がします。何しろ卒園までずっと唱え続けてたしなぁ。だから、言葉から映像や風景を思い浮かべることよりも、言葉と音や節回しを一緒にすることの方が、ずっとずっと早かったんですねー私は。入園当時まだ文字は読めなかった気がするので。そして、卒園から25年経った今でも、上記のお祈りを当時の節回しで言えるのにびっくりしました。刷り込みって怖い。文言はところどころ忘れてましたが。

や、たった今思いついただけなんで、もしかしたらもっと別の体験があったのかもしれませんが。幼稚園の頃からテレビっ子で映像の文化にも接していたはずなんだけど、文章とセットという意識はなかったなぁ。映像は映像+音声で別個に存在していたんだろうか。

一番最初に読んだ本らしい本で記憶しているのが、子供向け「あしながおじさん」で、手紙を書くところや寄宿舎の生活なんかはイメージができていたのを覚えています。でもやっぱり映像じゃなかった。