楠さんのTwitterアカウント凍結からの解除で、1つのプラットフォームに依存するリスクを語っておられた。noteであれ、このはてなブログであれ、何かを発信する際に「よくわからない理由で止まったり復活したり」はやはり怖い。
なぜか、とにかくこつこつ日記書かないとな、という気持ちになった。
昨日は大学のサークルの後輩夫妻と私たち夫婦でごはんを食べに行った。火鍋おいしかった。
共通の話題を持つ人の話をしていると、大学時代のあれやこれや(私と後輩には直接影響はない)の人間関係の話がぽこっと飛び出してくる。意外と忘れていないものだ。若い時ってそういうごちゃごちゃした人間関係があってもなんとか回っているからすごいなぁと思う。大人になってやってたら完全にやばい。そして大学卒業からざっくり20年経ってる今でも盛り上がれるのがすごい。
最近めっきり書けなくなった。書かなくなったんじゃなくて「能力的に」書けなくなった。題材なら毎日の暮らしの内容から採ればいいのでなんでもありだし、時間だって3行程度メモするならたぶん2分もかからないだろう。それがどうもできない。なぜだ。
エンジニアの方々の仕事の方法や思考の方向性に憧れたりその情報を摂取したりしているので、アウトプットの大切さはよくわかっている。非エンジニアだって同じことだ。そもそも自分の好きなことや考えたことを残したいと思ったのがきっかけでWeb日記というマイナーな世界に身を投じ、ここまでだらだらと続けてきたんだから、そのままだらだらやればいいはずなのだ。
なのに、それが難しい。
下手に文章とWebに関係する仕事に就いているせいで、書く前からそっちの脳みそが働く。読者、構成、日本語、その他もろもろ……読者なんて想定しないのが日記だというのに!考えるのが不毛なのに考えてボツにする日々が溜まっていって、空白の時間が続く。
記録しておきたいことならたくさんある。旅行のことも乗った乗り物の感想も、訪れた美術館のことも、本当は全部書き残したいのだ。でもまとめ上げきれずにそのまま頭の中に残っている。誰が読むと決まったわけでもないのに、とここまで打って、「誰が読むかわからないもの」を書く腕を失ったことに気づいた。かつての私は家族以外なら誰に見てもらってもよいものを書けていた。今はちょっと違う。家族に読まれてもなんとも思わない、かといって「読まれなくていい」は違う、の二つを満たさないと書けないという意識が強く働きかけるようになってしまった。ここまでは本当に今気づいたのだけど、要は無駄な自意識が、メモ程度の文章にまで悪い影響を与えてしまっているのだな、とわかったのだった。
だから無理矢理書いてみた。たぶん、読み返したら私は、すぐにアプリごと閉じてしまって公開ボタンを押さないと思う。だからもうここで公開してしまう。構成も読み返しもしないうちに。
雰囲気でMarkdownを書いていたけど(Slackなど)、もう少し文書でも使えるようになりたいと思ってちまちま練習中。
太字や小見出しはわかるけど、pタグや強制改行に関してはちょっと慣れないかもしれない。せっかくなので同人誌で紹介されていたMarkdownPadというエディタもダウンロードしてみた。
「という」をうっかり使ってしまった。厳密に書くと「同人誌で紹介されていたエディタ『MarkdownPad』」の方が一般的には読みやすいとされているし、私もこっちの方がすっきりしてて好きだ。でも、ブログみたいな「個人の話題」で、「という」「~と思った」が連続しちゃっても、別に問題ないんじゃないかなーと思っている。むしろ商用記事で「い抜き」「ら抜き」をよしとしている方が少し気持ち悪い。ライターさんのくせにもよるけど。