今の会社に入ってから16年が過ぎ、17年目に入って、押しも押されもせぬ古参社員である。弊社は創業から23年ちょいなので、絶対値的にも割合的にもそうなる。もしもうちょっと古い最初の会社で25年勤め続けたとしても古参にあたるので、一般的な会社員として古参といってよいだろう*1。
今回は「老害」ではなく「古参」の話。
相対的に古い時期に入社する人はその後増えるはずもないから、相対的に新しい時期に入社する人が増える一方で、減っていくしかない(以降「相対的に」は省略)。当然古い時代に関する記憶もそれなりにあるので(薄まってはいくけど)、歴史的経緯などを解説するには役立つが、あまり古い時代のことを持ち出しても「古代の話」となってしまって役に立たないことも多々ある。ミームなどもそれである。
IT業界にいるという特性上、役に立たない経験や知識は本当に役に立たないのだが、その現実を認めるのは過去の自分ごと否定することにうっかりつながる。思い出話もうかうかできない。そもそも思い出話を語れる人が少ないし、積極的に語りたいかというとそうでもない話だってある。
100年続く会社であれば、過去の知識や経験は「社史」として整理され、記録されていき、現在を生きる人は安心して忘れられる。必要があれば資料にあたればいい。「そうか、記録することで語り継がなくてもよくなるのか」となんだか大学で学ぶメディア論みたいなことを考えてしまった。
ここで突然話が吹っ飛ぶのだけど*2、正教会(キリスト教の宗派)に「永遠の記憶」というものがある。
永遠の記憶 - Wikipedia
過去に検索してたどりついたはずのページが今Googleで全然出てこないのでWikipediaと記憶をもとに書くが、この場合の「記憶する」主体は神で、人間ではない。キリスト教における全知全能の神が、その人のことをすべて(誰も見ていない行為や祈りも、髪の毛までも一本残らず)覚えているので、肉体的に限界のある人間はすべて覚えている必要はない。だから、神が永遠に記憶してくれるように祈る、みたいな解釈が可能だったという覚えがある*3。この「永遠の記憶」の話を見た時、人間は時間的に有限の存在だから、ロゼッタストーンやら竹簡やら何やらに記録を残し、紙を発明し、印刷術が生まれ、なんとかして記録を後世に残すように頑張ってきているのだなぁ……と感心した。
私は図書館が好きだったりはてなブックマークを愛用していたりとアーカイブ魔なところがあり、なんか幼少の頃から「テレビが記録できないのでメモを書く」みたいなことをやっていて、その原点というか最初のこだわりが「幼稚園で起きたことをすぐ忘れてしまうので、定期的に思い出そう」みたいなことを意識して「あの時はああだった、こうだった」と記憶に定着するように頑張っていたということだったのを、ふと最近思い出した。文字の読み書きができない頃からやっていた。具体的には幼稚園の年中の「ばら組」だった頃にスタートしていて、そのせいか普通はあまり記憶を持たないはずの幼稚園の頃の記憶がめちゃくちゃある。
初期のGoogleの「すべてを検索可能にする」という目標がとても好きだったのも、成長する有機体である(by ランガナタン)図書館が好きなのも、後付けで得た知識から来るものではなくて、生来の傾向なんだなぁ、とひどく納得した。
だから、過去に得た知識や経験や起きた出来事などが放置されたり忘れ去られたりするのがなんだか残念だと思う気持ちが強いんだろうなと思った。世間ではかつて「左遷されたり冷遇されたりした結果、社史編纂室に配属される」という設定があったものだったけど、私だったら喜んで異動するわ、社史作りたいわ。どこかで社史編纂室の募集してたら応募したいくらい。でも今の世の中ではそんな贅沢な職種はきっと存在しなくて、あったとしても本当に有能なアーキビストがめちゃくちゃ活躍してたりして、私の出る幕はないのだろう……と思うと、「一兵卒としての古参」の存在意義というのは本当に難しい。